• 2019.4.16
  • イベント

平成30年度卒業証書学位記授与式 学長式辞

平成30年度広島文教女子大学並びに広島文教女子大学大学院の卒業証書・学位記授与式は、学部卒業生、大学院修了生と、その門出を祝福する来賓、保護者、教職員、在学生でいっぱいになった本学体育館にて、盛大に行われました。

「危機の時代」を生き抜く「学び」のために

 

◇グローバル化が生み出す社会的陥穽(かんせい)

皆さんがこれから踏み出す現代社会の状況を一言で言い表すとするならば、私は迷うことなくグローバル化という言葉を選びます。国境を越えた人や物の移動を容易にした交通手段の発達に加えて、情報技術の革新は、自らと他者とを隔てる物理的な距離を一飛びに飛び越えることを可能にしました。その結果、世界は身近なものとなり、私たち一人ひとりの言葉や行動が社会に直接の影響を与えることも可能となりました。

スマートフォンを操作すれば、例えば山深い地方都市の街角からも、世界中の情報をリアルタイムで把握することができます。インターネットショップでは、いつでもどこでも、大量の商品の中から好みの一品を、不自由なく選び出すこともできます。こと情報に関して言えば、例えば東京のような、情報の集積地から離れていることで生じる不利益は、ほとんどありません。この意味においてグローバル化は、地域ごとの個別の事情にほとんど関わりなく、ひとし並みに、情報の平準化をもたらしたと言えます。

またグローバル化は、自己と他者との対比を容易にしました。情報端末の画面やテレビのニュース映像には、地球上のさまざまな場所での人びとの営みが、刻一刻と移り変わる情勢とともに映し出されます。私たちは、豊かで平和なこの日本に居ながらにして、映し出された世界の多様性に驚き、感嘆し、またその一方で、紛争や貧困にあえぐ人びとの姿に涙しつつ、この国の平和に改めて感謝の念を覚えることもあるでしょう。しかし、平準化や他者との比較が容易となったこの状況は、もうひとつの側面を包含しているように見えます。グローバル化の「影」の側面と言ってよいかも知れません。

平準化し、他者との比較が容易となった社会の中では、均質な集団の中の異質な存在を際立たせます。突出した才能を有する人や著しい成果を上げた人が時代の寵児としてもてはやされるのには、こうした社会状況が理由の一つとしてあるでしょう。しかしこれと反対に、多くの人々が自らの価値観にそぐわないと判断すれば、集団はその対象を排除しようとするでしょう。これは、20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが主著『大衆の反逆』の中で指摘した、「社会的な生(パブリック・ライフ)における知的凡庸さの支配」という事態とも重なります。社会的課題となって久しいハラスメントやいじめの問題、いわゆるSNSの世界での炎上、民族・門地・宗教等に基づく謂れのない差別、あるいは政治・経済上の紛争や戦争、難民問題まで、これら人類共通の課題の激化を、実は進展著しいグローバル化が助長している可能性は否定できないのです。

 

◇現代社会に求められる「役立つ人材」

日本の歴史の中でも特に深刻な分断を経験した南北朝時代に、人間とその社会の営みを透徹した思考で分析した思索の書『徒然草』が生まれました。その中に、次の印象的な一節があります。

良き細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。

「腕の立つ細工職人は多少切れ味の鈍い道具を用いる」という意味のこの一節は、道具の良し悪しよりも、それを用いる人そのものに価値を置いている点で、短いながら極めて示唆的です。

高等教育機関における2年乃至4年の教育課程を無事に終え、それぞれが専門とする社会的課題について最先端の学びを修めた、すなわち、社会と関わるための鋭利な道具を手にした皆さんにとって、次に必要なことは、その道具にのみ頼ることではありません。「良き細工」ならぬ「良き人」として、手にした道具を大切に用いて、一人一人が属する社会に貢献することが肝要です。さまざまな学術の成果が、有形無形の道具として、生活の細部にまで行き渡った現代社会において、それらと無関係に生きることはもはや不可能です。しかし、だからこそ、道具を用いる人の有り様を問うた、14世紀日本の思索家のこの言葉の含意を、今一度かみしめる必要があります。

いや、歴史をさかのぼるまでもなく、私たちはこの学園で、「心を育て 人を育てる」という、良き人の育成を誓った平明率直な理念で学んできたのです。

本学での皆さんの学びは、日々の具体的な学修活動・教育活動だけで完結していたわけではありません。「心を育て 人を育てる」という教育理念、あるいは3か条の学園訓。こうした、本物の人間を育てようとする教育の基盤が、一つ一つの学修活動・教育活動の根の部分にあってこそ、広島文教女子大学での学びは成熟した果実となるのです。

 

◇困難の時こそ、行学一如(ぎょうがくいちにょ)の精神を

学部卒業生の皆さんの入学前年、平成26年の8月、広島市は大規模な土砂災害に直面し、このキャンパスにも大きな被害がありました。キャンパスの復旧には学生・教職員、また地域の皆さまのお力も借りながら、多大の時間と労力とを費やしましたが、その災害の記憶も覚めやらぬ昨年7月には、再び未曾有の災害・西日本豪雨が発生し、多くの尊い生命が失われました。ここに集った方の中にも、その困難との苦闘を今なお続けておられる方は少なくありません。皆さんがこの地で過した2年乃至4年間は、この国が、広島が、そして大学そのものが、こうした危機に直面した年月でもありました。

しかし、そのような危機と困難の中にあっても、皆さん一人一人が、朝早くから夜遅くまで学修を重ねていた姿を、私は知っています。日々の学びに、資格取得や就職のために、また卒業研究を深めるために、図書館で文献と向き合う姿、ラーニング・コモンズで議論する姿、BECCで先生方と語り合う姿。他にも、文教ホールで、個別学修室で、ゼミ室で、空き教室で、先生方の研究室で。皆さんにとっての2年乃至4年間は、何よりも「学ぶ」ということを身に付けるための時間であったと、私は信じています。

創設者が作詞した学園歌2番の歌詞には「行学一如」という言葉があります。一つひとつの行いそのものが学びとなっているという、学修者の理想の姿を表わす言葉です。在学中の皆さんは、まさに行学一如を体現していました。

ただし、現代社会の状況に鑑みれば、卒業して歩みだすこれからこそ、行学一如の姿勢が必要となります。この広島文教女子大学で身に付けた行学一如の精神を忘れず、「自立した女性」として、そして何よりも「良き人」として、この困難な時代を乗り越えていってください。広島文教女子大学で学び過ごした時間は、必ずやそれを可能にすることと思います。

最後になりましたが、皆さんのご健闘とご多幸をお祈りし、式辞といたします。

卒業、修了、おめでとう。この広い世界のどこかで、またいつの日か、お目にかかれると信じています。